「美男の国へ」

岩井志麻子さんが新潮45で連載の
「ドスケベ三都物語」を本にしました。
次々とオトコ遍歴を重ねる40代。
日中韓ベトナムを股にかけ、
次々と新しい男をちぎっては投げちぎっては投げ、
浮気と本気とつまみ食いを繰り返していく姿を
コミカルに描いています。
…それが一種、「地獄」に見えました。

次々と男性がやってくる40代で、
羨ましく見えてもいいはずなんですが。
なぜここまで彼女は男性を
味わい、裏切り、遍歴せざるを得ないのか。

著者は、「子を置いて去る」という一番の地獄を
味わったからじゃないかと思ったのです。
かつてまだ小学校前だった息子、
まだ小学校2年生だった娘。
置いて去ったときの子供たちの姿が
男に抱かれ騙したり騙されたりする話の
合間合間に繰り返し語られ、
子どもたちの哀しい涙が切なく浮かんできます。
彼女はもしかしたら、そこから
「自棄」をまとったんじゃないかと。
まるで、「柔らかな頬」(桐野夏生)の主人公の
「その後の姿」にも見えます。

本当なら命より大事はずの子どもを
自分の意思で置いて去った後、
女にはいったい何が残るんでしょう…。
家庭・子供というのは自由を奪うものですが、
子供を失って時間的自由をもう一度得たときに
女は自分に置かれていた一種の「封印」をどう外し、
どう漂流していくものなんでしょうか。

性的エネルギーの発散をし損なうと
女性は「オニババ」化する、と書いた本が
かつてヒットしましたが、
(「オニババ化する女たち」三砂 ちづる・著)
結婚や子どもという封印をいったん解かれ、
自分を抑えるものを失った女がこういう形で
暴走せざるを得なくなったという姿は
今回、かなり衝撃的でした。
いかに性的に自由に見えても結局それは
「地獄そのもの」なんじゃないのか、
しかもその「性」の漂流が彼女としては
一種の「生きる道」「食っていく道」
になってしまっているために、さらに
地獄を極めることになっているんじゃないのか、
と思いました。
その地獄を極めることで、
子どもを置いて去ったときのつらさを
忘れようとでも思っているかのように。

コミカルに書いてあっても、
実に心情的に重かったです。
自分にも降りかかりうる「地獄」を垣間見ました。

美男の国へ

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この記事へのコメント

2008年03月08日 16:21
本を読んでみないとなんとも言えないのですが、ある年を過ぎてもぶっとんでいる女性というとホストにお金をつぎ込んだり整形を繰り返したりしている中村うさぎさんとか、そんな感じなんでしょうか。
女性=母性と思われがちですが、その前に一人の人間ですから。
図書館で借りて読んでみますね。
シーラカンス
2008年03月08日 16:28
あー、そうです!まさに私も中村うさぎさんを思い出しました。中村さんは自分でも「依存症」であることを認めていて、それが整形とかホストとかブランドとかに向かう、って自身で言っていますね。やっぱり何か「満たされないもの」があるからこそぶっ飛んでしまうというか…ぶっ飛べるぐらいの経済的キャパシティがあることの不幸、かもなぁってちょっと思いました。スーさん、なんでしたら送ってもいいですよん♪
tatsuuma
2008年03月08日 22:20
今夜のシーラサンは、深くえぐっている、と感じました。錨が海底の泥をくわえて離さないような感じです、これほど深く掘れるのに、いつもは何故ああも表層的なのか、それはシーラさんが「親」であることを大前提にしていることが多いからではないか、今回はそうではない視点がから書き込んでいるのではないかと感じます。どうですか?
辰馬
2008年03月08日 22:27
そうではないという視点という表現は、中途半端でした。ああなれば、恐ろしい、自分はとても持つとは思えない恐怖を感じたのではないでしょうか?
2008年03月08日 23:37
昔、吉行淳之介が、「男が女と千人と関係すれば千人切りといって憧れであるが、女が男と千人関係しても千人切りとは言わず、千人に切られたという感じがする」とエッセイに書いておりました。岩井志麻子さんの場合、関係する男がどっちかというと後進国の男のようで、なにやら非常に「チャタレィ夫人の恋人」とか、マルグリット・デュラスの「ラマン愛人」のようなですね。地獄かも知れないけれども退廃的で官能的な世界を感じます。
2008年03月09日 12:10
知り合いが不倫が原因で子供を置いて離婚しました。
その知り合いはあっけらかんとしていて理解不能ですがそういう女の人もいるんだな。
いまのところラブラブですので
私には縁がない世界です。
2008年03月09日 13:28
すごく読んでみたいような、こわいような本ですね。普段、家庭や子供や夫(一番軽いかも)がのしかかっている自分がたまにすごくイヤだったりしますが、なくなったら…自分もなくなっているのかもって思いました。自由になりたい!と願っているだけが花なのかなぁ。何にも縛られない自分ってめちゃくちゃかもなぁ。やっぱさびしくてすごいことしちゃうのかなぁ。なんて、シーラさんの感想を読んで思ったのでした。やっぱ、読もうかな。
シーラカンス
2008年03月10日 21:28
>辰馬さん
「柔らかな頬」のときも読んでいて強烈な恐怖感を感じましたが、その背景には、「家庭から出たい」「子供から離れたい」という、実は言葉に出せない密かな願望があるからだと認識したのです。1人の女に戻って、糸の切れた凧のようにどこかに行ってしまいたいと。しかしそれを地で行く彼女の話を読むと、それがまさに地獄以外の何物でもないことをまざまざと思い知らされる感じがしたのです。確かに、とても自分では持ちません。

>エイジさん
そうですね…もちろん、次々と男性を代えて愉しむという女性がいてもいいと思うのです。でも、この本の場合、愉しむとかいうよりも何かこう、…覚悟を決めてどこか泥の中に突っ込んでいっているような凄まじさを感じました。著者はまさに「覚悟の上で斬られている」のでしょうか。
シーラカンス
2008年03月11日 21:56
>ゆうづきさん
確かにそういう女の人もいるんですね。そういう生き方を否定はできないよなと思っています。お子さんのことはとても心痛みますけれど…。ワタシにもほんと、無縁の世界ですねー。どこかで憧れるような気持ちがあることを否定できない自分が少々コワイです。

>rossoさん
そうなんです、ワタシも全く同じことを思いました。どこか家庭というものを「束縛である」と思っている自分がいるのですが、束縛に見えているものが実は「自分を自分と言う形にしているもの」なのかもしれない、って思ったのです。そのタガがなければ、ひょっとしたらワタシはワタシですらなくなってしまうのかもなあと…。
tatsuuma
2008年03月13日 00:50
アンナ・カレーニナもマダムボヴぁリーも、不幸な感じがしますが、レディ・チャタレーは幸せそうです。それはチャタレーに子がなかったせいかな。
シーラカンス
2008年03月13日 21:53
>辰馬さん
なるほど!確かにそうかもしれません。何かに溺れるにしても、その際子どもを置いていったかどうか、というのはその後を決定的に変える要素かも…。女性にとっては特に。いや、男性にとってもそうなのかもしれません。
シーラカンス
2008年03月13日 22:09
それにしても、著者の多くの友人も同じ意見だろうとは思うのですが、…あの韓国の「内縁の夫」氏と落ち着いて、早く幸せになりはったらいいのにぃ。と心から願わずにはいられません。なぜあの男性だけじゃダメなのかなぁ…お気の毒になあ…どっちも。って思います。漂流せざるを得ない心って、なんだかとても、シンドそうに思えます。
tatsuuma
2008年03月16日 05:51
あえて、話題はずしますが、映画「雪国」はそごい映画です。豊田四郎監督、岸恵子がすさまじくすごい。市川昆監督の「おとうと」これも岸恵子がすごい、このふたつの映画に間の長い時間を
女優第一線で頑張り、いまだに現役である岸恵子に感服。なにか生来の根性を感じました。必見ですよ。往時の経済状況、女性に行き方が見えます。
辰馬
2008年03月16日 05:59
前文の訂正、1二つの映画に間の 2女性の生き方 映画は「考古学」でもあると思います。その当時の風景・風俗がきっちり記録されていて面白い。市川昆さんはすごい人で、小津の「晩春」のリメイク「娘の結婚」をワウワウでやってました。鈴木京香、よかった。シーラサン、モット映画評を。

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